2013年10月9日水曜日

長新太の絵本


暑さが戻ってまいりました。なかなか衣更えができなくて困ってしまいますね。

しかし前回担当南先生の言う通り季節は「芸術の秋」です。

ということで、長新太さんの展示を見に上井草のちひろ美術館に行ってきました。
銀座校にはパンフレットもありましたのでご存知の方も多いかもしれません。


いわさきちひろの美術館は安曇野が有名ですが、上井草には自宅兼アトリエ跡に小さな美術館が建てられ、常設展と企画展が行われています。





さて、小さなころから慣れ親しんだ長新太さんの絵本。子供が描いたようなのびやかで自由な表現が印象的です。

特別な本というより、もっと身近なものとして、それこそ字も読めないころからながめていたように思います。


原画を見る機会はなかなかありませんのでじっくりと見てきました。
クレヨンの質感があたたかかったり、マーカーが混ざり合ってくすんだ色が不思議と透明感のある色に見えたり。
展示数もあまり多くはないので、のんびりゆっくり楽しむことができました。


こちらの美術館には図書室もあり、そこで長さんの本も読むことができます。
展示中のためか本棚にコーナーが設けてありましたので、ここでも懐かしんだり、笑ったりしながらゆっくり過ごしてしまいました。


ララバイ(子守唄)という名のいすだそうです

小さなお庭もあります


大人になるにつれて感じたことですが、長さんの本はただおもしろかったり、たのしかったりというものではないようです。
こどもにとっては、おもしろくて、当たり前で、なんでもないことなのに、徐々にそれだけではない気配のようなものを感じてきます。


それはシュールとか不条理などとも表現されていますが、谷川俊太郎さんが長さんを偲んでよせた言葉が絵と共に展示されていました。

『長さん自身が身辺に漂わせていた可笑しみ、長さんの作品に内在する何か人の感情を超えたような不気味さ、それはユーモアとか諧謔(かいぎゃく)とかいう言葉では片付けることのできないもので、そこには解釈を許さない一種の底知れぬ深さがある。ふつう人は生きることに意味を求めるものだが、長さんは人生を意味の視点では見ていない、肌触りでとらえている。意味だけでは割り切れない生きることの奥行き、理性が役に立たないところにひそむ生きることのリアリティ、長さんはそんな場所にいた、いまもいる。』
      (『こどものとも』2005年11月号付録 福音館書店より)



惹き付けられ、考えてしまう言葉です。人生の肌触りとは・・・



                           
                           銀座・恵比寿校講師 吉澤







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