2015年8月22日土曜日

8月は

8月も半ばを過ぎた。
つくつくぼうしがよく鳴くようになって、夏もじき終わりだ。 暑さはそう簡単にはおさまらないし、日射しもきついけれど、名月の秋はもうすぐそこにある。遠く目を凝らすと、年の瀬の姿も霞み見える。

暮れ時、空を眺めて帰る。
暑さの盛りの眩しさはもうない。 アンリ・ルソーの描いたようなたなびく雲があり、土屋禮一先生の絵のような沸き立つ彩雲がある。
その日のままならぬことあれこれが消えていく。

明けの空はすべてが新しい




この夏は太平洋戦争にまつわる本を少し読んだ。
吉村昭の『脱出』は終戦前後の人々を描いた短編集である。1945年8月15日に終戦。確かに歴史的にはそうであっても、紙を裏返すように平和が訪れた訳ではなかった。そのことがよくわかる。樺太で、沖縄で、あるいは奈良で。市井の人々の暮らしを見舞う艱難の日々。そこには不条理の連続がある。
小説とは言え、この書き手は綿密な調査、取材で知られた人だ。年若い登場人物たちの視線を淡々とたどる文章に、いかにもそうであったろうと思わされる。彼らは渇き、深手を負い、ありとあらゆる理不尽に曝される。しかし泣かない。
対し半藤一利の『日本のいちばん長い日』はいわば上に立つ人々の終戦を描く。こちらの登場人物たちは泣く。涕泣、慟哭。じつによく涙する。
強いというのは、どういうことなのか、などと思う。


雲と時は容赦なく流れる


世田谷美術館で『金山康喜のパリ—1950年代の日本人画家たち』を観てきた。
展覧会の主人公は早逝という悲劇を背負った画家ではあるけれど、絵はみな哀切さを湛えながらもいきいきとしている。
主な出品作は1950年代のものだ。金山に加え、交流のあった画家たちの作品が並ぶ。戦後間もない時代にパリに行くことができたのは、限られた人であるには違いない。けれど、みな、前を向いていたのだ。先へ先へ、ただ自らの絵を探究していた。 少し救われる思いで展示室を出た。
美術館を囲む砧公園は蝉の音ではち切れそうになっている。ずっしりと緑陰が濃い。
足許を見ると、青々とした団栗が沢山散っている。つやつやとして、たからもののようだ。手のひらにのせてみる。


百日紅に破れんばかりの蝉時雨




銀座校講師 五十棲さやか

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